「だ、誰か助けてええぇっ！！」
ん・・・？今のは・・・女の悲鳴？
既に夕日も落ちた薄暗い森の中・・・。
商品の仕入れに向かう僕の馬車が山を越え、あと少しで山のふもとの森を抜けようとした時だった。
切り裂くような女の悲鳴が、僕の耳に入ってきたのだ。
タタタッ・・・・
「はぁはぁっ・・・！」
しばらくして、悲鳴が聞こえた森の奥の方から、足音とともに女の人影が現れる。
「・・・あっ！そ、そこの方、助けてくださいっ！」
白い村娘の服を着た女性が、背中まで伸びる二つの三つ編みを揺らしながら、僕の元に駆け寄ってきた。
「はぁはぁ・・・お、お願いです。助けてくださいっ！！」
彼女のただならぬ様子に、僕は馬車を止めて飛び降りる。
「はぁはぁはぁっ・・・！」
僕の側には、既に体力の限界といった感じで両手・両膝をペタンと地面につく彼女の姿。
伏せている顔からは、彼女の激しい息遣いが聞こえていた。
「君、さっき悲鳴を上げていたけど・・・何かあったのか？」
僕は伏せている彼女の顔を覗き込むようにして事情を聞こうとする。
すると、それに応えるように彼女はゆっくりと顔を上げ・・・何かに怯えるような瞳が、眼鏡の奥から僕を見つめていた。
その眼鏡をかけた顔立ちは、まだ少女と言っても差し支えないような幼さが残っている。
見た目は僕と同じ年頃の子で、地味な感じの・・・まあ、どこでもいそうな女の子だけど・・・。
・・・だけどこの子・・・・・・？
「はぁはぁ・・・と、突然、すれ違った二人の男の人に羽交い絞めにされて、森の奥の方へ引きずり込まれたんですっ！
連れ去られる途中、なんとか隙をみて逃げて来たのですが・・・でも、さっきからその人たちが追いかけ・・・ああっ！！」
まだ話の途中なのに、彼女は突然、目を見開いて驚きの声を上げる。
怯えの色が窺える彼女の瞳の先には、いかにもガラの悪そうな二人組みの男たちがこっちを見据えて立っていたのだ。
近くの山賊か何かだろうか・・・彼らは手にナイフを持ち、卑猥な笑いを浮かべながらじりじりと僕たちに詰め寄ってくる。
「へへへ・・・さあ追いついたぞ、お嬢ちゃん。・・・おい、そこの小僧、痛い目を見たくなかったら小娘をこっちに渡すんだ！」
男の一人が右手に持つナイフをチラつかせ、左手で彼女を手招きする。
やれやれ、どうやら僕は厄介事に巻き込まれたらしい。
「お前たち、この娘を捕まえて一体どうするつもりなんだ？」
とりあえず僕は、男たちに彼女を追いかける理由を尋ねることにした。
「おめえさん、そりゃ決まっているだろ？
そいつをアジトに連れ帰って、いろいろと楽しませてもらうのさ。
・・・今度は逃げられないよう、こいつをかけておかないとな・・・へへへ。」
そう言いながら、もう一人の男が荒縄の束を取り出した。
あれを使って彼女を縛り上げ、山奥のアジトまで連れ去ろうとでも言うのだろう。
「ひっ！・・・いやぁ！」
その様子を見た彼女は、すぐさま僕の背後へと隠れた。
「お願い助けて・・・助けて・・・。」
背後から聞こえてくる、かすれるような彼女の声。
彼らのアジトに連れ去られたらどうなるか・・・。
まだあどけなさが残る彼女にも、その後の惨劇におよその見当がついているんだろう。
僕の背中に隠れた彼女は、僕の服をぎゅっと掴んでいた。
「そして散々遊んでやった後、人買いの連中にでも売っぱらってやるのさ。
あまり色気のねぇ小娘だが、そこそこの値で買い取ってもらえるよう、俺たちが毎晩色々と仕込んでやっからよ、へへへ・・・。
小僧・・・そういう訳だ、大人しく娘を渡してもらおうか。」
彼らはニヤニヤと薄笑いを浮かべ、更に僕たちに近寄ってきた。
「そんなのいや・・・いやだ、いやだぁ！！
・・・どうして・・・どうしてこんな事に・・・・・・ぐすっ・・・。」
あ〜あ・・・山賊たちの脅しの台詞に、とうとう彼女は泣きだしてしまった。
僕の背中を掴む彼女の力も一段と強くなっているし・・・やれやれ、どうしようかな。
思いがけず僕の身に降りかかった突然の修羅場。
だけど、意外なほど頭は冷静に考えていた。
このまま大人しく彼女を引き渡すか、それとも彼女を助けて逃がすか・・・。
この事態から抜け出すために、僕はいろいろと思考を巡らせる。
だけど、背後に隠れている彼女にちらっと目をやった時、僕の頭の中で、ある考えが浮かび始めた。
・・・こいつらを追い払って、例の『仕事』に取り掛かってしまうか・・・？
でも・・・一儲けできるって程でもないしなぁ。
それに、ちょっと気になっていることもあるし。
うーん、なかなか考えがまとまらない・・・。
「どうした小僧？
ははぁ〜ん、そうかい・・・俺たちに歯向かおうって腹かい？
それならば、お前を殺してでも娘を連れて行くまでだっ！」
・・・どうやら、もう考えている暇はなさそうだ。
「おい・・・セージ、何揉めてんだい・・・。」
今まさに山賊たちが飛びかかろうとした時、止めてあった馬車の箱型の荷台の中から、野太い男の声が響いてきた。
ガチャ・・・
荷台の扉が開き、そこから降りてきた筋骨隆々の大男。
「セージ・・・こいつらは何者だ・・・？」
「あ・・・兄貴。」
この人は、僕といっしょに商売の旅をしている、僕の兄貴分だ。
荷台の中で寝ていた兄貴だったけど、外での言い争いの声で目が覚めたのだろう。
兄貴に事の一部始終を説明すると、兄貴は不機嫌そうな顔で山賊たちを睨みつけていた。
「な・・なんだてめえはっ！お、俺たちとやるつもりか・・・っ！」
自分たちよりはるかに体格の良い男の出現に、焦りの表情を隠せない山賊たち。
そして、さっきまで僕の背中に強く感じていた彼女の握力が、いつの間にか消えてしまっていた。
気になって後ろを振り返ると、そこには少し安堵の表情を浮かべた彼女の顔がある。
うーん、僕と二人っきりの時は散々怯えて、しまいには泣き出していたのに。
僕じゃ頼りなさそうに見えるのかなぁ・・・ちょっと複雑な心境だ・・・。
「この野郎・・・このまま女を逃がしてたまるか！
意地でも連れ帰らせてもらうぜっ！」
彼らはさっきまで僕たちにチラつかせていたナイフを、今度は兄貴に向けて構えている。
「かまわねえっ！やっちまえっ！！」
そしてそのまま、兄貴に向かって突進していく山賊たち。
「くたばりやが・・・・ごぶっ！！！」
だが、ナイフが兄貴の体に触れる寸前、兄貴の丸太のような腕から繰り出されたパンチによって、山賊たちは軽々と後方へ吹き飛ばされていた。
「ぐ・・・かはっ！！」
兄貴の一撃の元に倒れ伏す山賊たち。
「どうだい？・・・まだやるか・・・・・？」
激痛でもがき苦しむ二人の山賊を前に、凄みを利かせる兄貴。
「ち・・・ちくしょう！覚えてやがれっ！！」
山賊たちは激痛の走る胸元を押さえながら、お決まりの捨て台詞を残して、森の奥へと消えていった。
「あ、ありがとうございましたっ！
わたし、何てお礼を言えばいいのか・・・。」
助けられた彼女は感謝の言葉を述べながら、俺たち二人に深々と頭を下げている。
「お嬢ちゃん・・・・・・怪我は無かったかい・・・・・・。」
そんな彼女の頭にそっと手を置き、彼女の身を案じる兄貴。
「はい、お二人のおかげで。
私・・・私、一時はどうなるかと。
もし、お二人に体を張って助けてもらわなければ、今頃私は・・・。
本当に・・・本当にありがとうございました・・・。」
そして、またもや彼女は顔に手を当てて泣き始めた。
それにしても涙もろい子だなぁ・・・、あら？・・・今度はうれし涙か。
連れ去ろうとした山賊が去り、災難が終わったと思っている彼女。
だけどこの娘、まだ危険が去っていないことに気づいちゃいない。
なぜなら僕たちは・・・。
未だ涙が止まらない彼女の頭を、慰めるかのように擦っている兄貴。
だけどその間、兄貴は彼女の全身を舐めるように眺めていた。
まるで品定めをするかのように・・・。
「ごめんなさい、さっきから涙が止まらなくて・・・」
そう言いながら彼女は眼鏡を外し、懐から取り出したハンカチで涙を拭き始める。
そしてしばらくの間、眼鏡を外したまま涙を拭き取り続けていた。
「ほう・・・。」
その様子を見た兄貴から、感嘆の声を上げる。
口元には、僅かな笑みが浮かんでいた。
そして・・・、
「セージ・・・・・・。」
しばらくして僕に顔を向けた兄貴は、目線を彼女に移しながら僕に向かってあごで合図を送る。
これまで何度も見てきた『仕事』に取り掛かるサインだ。
「ところでさ、こんな時間に人気の無い森を歩いたりして・・・他に仲間はいないの？
女の身一つであんな悪い連中に見つかったら、それこそ『さらってください』って言っているようなもんだよ？」
ようやく涙が止まった彼女に、僕はそっと問いただした。
僕の『職業柄』、他に付き添いがいないか確かめたかったからだ。
「あ、はい・・・私一人なんです・・・ごめんなさい・・・。
・・・実は、年の離れた妹が突然の高熱にうなされてしまって・・・。
私の住む村では大した治療も出来ないので、私一人で隣町までお薬を貰いに出かけたのです。
その時にはかなりお日様が傾いていたから、村に帰る頃には日が暮れてしまうのは分かっていたのですが・・・。
妹の苦しむ顔を見ていたら、いても立ってもいられなくて・・・無茶をした私が馬鹿だったんです・・・。」
そう言いながら彼女は、腰に掛けていたバッグから小さな紙袋を取り出した。
おそらくこの紙袋の中に、彼女が手に入れた薬が入っているのだろう。
やはり見てのとおり、付き添いはいないんだな。
・・・好都合だ。
「事情はともかく、夜道での女の一人歩きは関心しないな。
どうだい？僕の馬車で、君の村まで送っていこうか？」
「えっ！？
そ、そこまでお二人にご迷惑をお掛けするなんて・・・、なんか悪いです・・・。
村までそんなに離れている訳ではありませんし・・・。
・・・それに、お二人ともご用事があるんじゃないのですか？・・・お仕事とか・・・。」
こちらの申し出に、女の子は少し赤くなった顔を伏せ、いかにも申し訳なさそうにしている。
「いや、いいんだよ。
夜道を歩く女の子を放っておく訳にもいかないし。
もしかしたら、さっきの連中がまた襲ってくるかもしれないしね。
それに・・・今日の僕たちの商売ならもう終わっているよ。」
・・・まあ正確に言えば、『もうすぐ終わる』ってところだけどね。
「では、すいません・・・お言葉に甘えて・・・。」
「じゃ決まりだね。
あ、そうそう悪いけど、乗る場所は後ろの荷台で勘弁な。
生憎、馬車を操る僕の席以外には、そこしか乗るところがないんだ。」
「いえいえっ、乗せてもらえるのならばどこでも構いませんっ！
・・・こんなに優しくしてもらって、何から何までお世話に・・・。
セージさん、村に着いたら必ずお礼をいたします・・・いや、させてくださいっ！」
「いいってっ！そんなに気にしなくても。
困っている女の子を助けるのは男の義務だからね。
とにかく急ごう、病気で苦しんでいる妹さんが君の帰りを待ってるよ。」
ちょっと臭い台詞を言っちゃったかな・・・
そう思いながら僕は彼女の手を取り、馬車の後ろに回って、箱型の木製荷台の前まで彼女を連れていく。
「普段なら、中にいくつかの『商品』が入っているんだけど、ちょうど今、中の商品は出払ってからっぽなんだ。
ちょっと待ってくれ、すぐに中の明かりを点けるから。」
そう言い残して、僕は荷台の扉を開けて中に入った。
荷台内部に吊るしてあるランプに灯をともし、中を次第に明るくさせていく。
「よし、準備できた。中に入りなよ。」
「すいません、それでは失礼します・・・。」
僕の手招きに応じて、彼女がゆっくりと荷台の中へ入ってきた。
何の疑問も持たずに・・・。
それにしても彼女、本当に素直な子だなぁ・・・。
助けてもらった相手とはいえ、見ず知らずの人間をここまで信用するなんて。
まあ、少しでも嫌がる素振りを見せたら、力尽くでも馬車の中へ連れ込むつもりだったけどね。
でも何だろ・・・この感覚・・・。
さっきから心の片隅で引っかかっているものが、だんだん大きくと・・・？
不安というか心配というか・・・もやもやっとしたものが心の中でどんどん大きくなっていく・・・。
これっていったい・・・。
そして、彼女が荷台の中に入ってすぐの事だった。
「あれっ？」
素直な性格の彼女が、ようやく僕たちに疑問を抱き始めたのは・・・。
荷台の入り口で、彼女は不思議そうな声を上げたのだ。
「この中って・・・いったい・・・？」
おそらく彼女は、目に飛び込んできた異様な光景にびっくりしたんだろう。
そこにあるのは、鉄板で作られた荷台の内壁に、その鉄板に取り付けられた数本の長い鎖とその先にある鉄輪・・・。
木で作られた荷台の外観とは全く違う、異質な雰囲気が荷台の内部に漂っていたのだ。
「その鎖に付いている鉄の輪みたいなもの・・・い、いったい何に使うのですか・・・？」
床に転がっている複数の鉄の輪が気になったのか、恐る恐る僕に質問をする彼女。
室内の異様な雰囲気に呑まれてしまったのか、さっきまで浮かんでいた彼女の笑みが明らかに消え、その声はわずかに震えていた。
「あ、これ？
これはね、積み込んだ『商品』が荷台の外へ出て行かないよう、こいつで繋ぎ止めておくんだ。」
ジャラ・・・
僕はそう言いながらながら、側に転がっていた鉄輪を拾い上げ、彼女の目の前に差し出してみせた。
無機質な鋼鉄製の輪が室内のランプによって怪しく光る。
「・・・セ、セージさん。
そ、そこに付いているのって、もしかして・・・か、か、髪の毛？」
「ん？」
僕が掴んでいる鉄輪から垂れ下がっている鎖。
震える指が差すその部分には、長い髪の毛が数本絡まっていたのだ。
更には、血の跡のような汚れまで付いている。
「・・・ああ、そうだよ。
やれやれ・・・おそらくこれは、以前この鉄輪に繋いでいた『商品』のものだね。
確かにあの女の子はかなり抵抗していたからなぁ・・・その時に付いたんだろうな。」
「えっ・・・・！！
・・・・ま、まさか・・・お二人が取り扱っている『商品』って・・・！！！」
彼女はそう言いながら、僕から後ずさりを始めた。
ようやく彼女は気づいたみたいだ・・・僕たちが人さらいということを・・・そして、今から自分がどんな目に遭うのかも・・・。
「やっぱり一人で帰ります・・・ごめんなさいっ！！」
早い口調で別れの言葉を告げた彼女。
身の危険を感じた彼女はすぐさま僕に背を向け、一目散に荷台から飛び降りようとした。
ドンッ！！・・・ドサッ・・・・。
「きゃっ！・・・いたいっ！」
しかし、荷台の入り口から飛び降りようとした女の子の体が、逆に荷台の中へ仰向けに倒れこんだ・・・いや、押し戻されたと言った方が正確かもしれない。
荷台の入り口には、兄貴が彼女の逃げ道を遮るかのよう待ち構えていたのだ。
「お嬢ちゃん・・・、せっかく乗ったんだ・・・最後まで乗っていなよ・・・。
まあ、行き先は全く違うけどな・・・。」
バタンッ！
荷台の中へ入ってきた兄貴は扉を閉め、壁に掛けてあった麻縄を手に取った。
同じく僕も麻縄を手にする。
「そんな・・・まさかお二人とも・・・ひ、人さらいなんですか！？」
床に倒れこんでいる彼女の表情は、今にも泣き出しそうな顔だ。
「そうだ・・・お嬢ちゃんも運がねえなぁ・・・。
山賊から逃げて、助けを求めた相手が・・・俺たちとはな・・・。」
兄貴はそう言いながら、素早い動作で彼女の体を抱きかかえた。
「やめてっ！離してくださいっ！！！」
兄貴の太い腕から逃れようと全身の力を使ってもがく彼女。
でも、その小柄な体ではとても逃れそうには見えない。
「たしかに地味で、ぱっとしない娘だが・・・磨けば光るタイプだぜ、お前・・・。」
チャッ・・・
「あっ！」
そう言いながら、兄貴は彼女の眼鏡を取った。
僕もさっき思ったけど、この子、たしかに眼鏡を掛けない方が全然可愛いんだよなぁ。
これなら高値で売れそうだ。
「もう諦めたほうがいいと思うよ。
僕たちの組織に狙われて、逃げ延びた女なんかいないからね。」
背後から女の子に近づいた僕は、彼女の耳元でそう呟いた。
「い、いや・・・いやあああああああああああああぁ！！！」
絶体絶命の危険に渾身の悲鳴を上げる女の子。
だがもう手遅れだ・・・。
僕たちが所属している闇の組織「エイトクラウド」。
この組織は人身売買の活動を目的としている。
その中でも僕たち二人は、一人歩きをしている女性を誘拐するのが担当だ。
さらった女性たちを馬車に押し込み、若い女を目当てにやって来た客たちに売りさばくのだ。
子供のいない金持ち夫婦や労働目的で購入する経営者とは違い、彼女のような女の子を買っていく客層は・・・まあ、みなまで言わないでおこう・・・。
「いやあっ！・・・助けて、助けてええぇっ！！」
兄貴の腕の中で懸命に悲鳴をあげる女の子。
この悲鳴を合図に僕たちは、二人掛かりで彼女の身体をうつ伏せの姿勢に押さえつけた。
直後、兄貴が彼女の背中の上に乗り、彼女の両腕を後ろ手に捻り上げる。
「いたいっ！いや、いやだぁっ！
・・・う、うぐっ！？・・・んぐうううううっ！！！」
兄貴が彼女の両手首を後ろ手に縛り上げる最中、僕は彼女のあごを掴み、悲鳴を上げ続けていたその口に布切れの塊を押し込んだ。
こうしておけば、たとえ馬車の側を通りすがりが通っても、悲鳴が聞こえてしまう心配がなくなるからだ。
わずかに漏れる呻き声も、馬車の音や外の雑音によって全て掻き消されてしまうだろうしね。
そして、その布切れが吐き出されないように、彼女の口に結び目を作った猿轡を噛ませる。
頬に食い込むほどがっちりと噛ませたことを確認すると、今度は彼女の足元に回って足首と膝を麻縄で縛り、彼女の足を一つにまとめていく。
ちらっと兄貴の方に目をやると、手首を縛り終えた兄貴が彼女の胸の上下に縄を通し、女の子の腕の自由を完全に奪い取ろうとしていた。
「んぐっ！！んぐううううっ！！！」
女の子に抵抗する間を与えず、手際よく彼女を拘束していく僕たち二人。
そりゃそうだと思う。
なぜなら、僕たち二人はこうやってもう何十人、・・・いや何百人もの女の子を誘拐してきたのだから・・・。
でも・・・なんだろ・・・、さっきから言っている心の中の不安・・・。
さっきよりも、更に更に大きくなっている。
そう、この女の子を見てからだ・・・この不安みたいな感情が出てきたのは・・・。
でも僕はこの女の子なんか元々知らないし、別に魅せられたわけでもない・・・。
でも・・・とても気になっているんだ・・・この子のことが・・・。
なぜか・・・。
・・・ジャラ・・・・・・
「セージ、こいつを嵌めておきな・・・。」
ガシャッ・・・！
手足の自由を完全に奪われ、床に転がっている彼女の側に、先程の鉄輪が投げ置かれた。
僕は兄貴の指示通りにそいつを拾って彼女の首に巻きつけ、懐のポケットから南京錠を取り出す。
「んぐっ！？」
その様子に、信じられないという表情を浮かべる彼女。
さすがに彼女も分かっただろうな、この鉄輪の正体・・・。
鉄輪を彼女の首に固定させるため、つなぎ目部分にある穴に南京錠のアームを通し・・・そして力を込めた。
カチッ・・・！
「んんんっー！！！」
小さな金属音と彼女の呻き声が、荷台の中で同時に響き渡る。
鋼鉄製の『首輪』が彼女の首に嵌められた瞬間だ。
これでもう・・・彼女は自力でこの馬車から出ることが出来なくなったわけだ。
「うぐっ・・・うう・・・ぅ・・・・。」
彼女もそれに気づいたのか・・・大粒の涙をこぼしながら猿轡の奥で泣き始めていた。
その瞳には絶望の色が見え始めている。
だけど・・・
その涙を見た瞬間・・・突然、胸を締め付けられるような思いに駆られた。
いったい・・・どうして・・・？
僕はもう・・・数え切れないほどの女の子にこの首輪を嵌め、闇の世界に引きずり込んでいる。
もう散々、女の子たちの泣き顔・・・そして助けを求める顔をこの目で見てきたのだ・・・。
物心付いた時から組織にいる僕が生き残るためには、そして僕がいる組織が生き残るためにはしょうがないんだ・・・。
この仕事を始めた頃、自分にそう言い聞かせながらこの首輪を嵌めていた。
でもそのうち何も感じなくなり・・・やがて、組織に尽くすことが自分の使命・・・いつの間にか、そう思うようになっていた。
だけどこの子・・・この子に首輪を嵌め、彼女の泣き顔を見た時、胸に突き刺さるような痛みを感じたんだ。
絶対にやってはいけないことをやってしまった・・・いままで感じたこともなかった後悔の念・・・。
それが今、僕の頭の中で駆け巡っている。
なぜ・・・なぜなんだっ！
「さて、セージ・・・引き上げだ・・・。
お嬢ちゃん・・・しばらくの間、この中で我慢するんだ・・・。
まあ、この馬車を降りたら・・・次は船の上だがな・・・。」
「んぐっ！？・・・・んぐううううううううううっ！！！」
その兄貴の言葉を聞いた彼女は、まるで断末魔のような呻き声をあげた。
彼女はこの後、山の向こう側にある海岸まで運ばれ、そこで待っている依頼主の船に積み込まれることになる。
今回の依頼人は、異国から商品を買い付けに来ている常連客で、名前はドン＝チャン伯爵。
伯爵は健気な女の子ばかりを買いあさる、最近一番の大口の客だ。
それに・・・これはあくまで噂話だけど、伯爵は買い取った女の子たちを拘束具で自由を奪い、屋敷の地下室に閉じ込めているとか・・・。
そういえば今回の仕事は、火急に少女を一人調達してほしいと、伯爵から依頼があったのが始まりだった。
いったい伯爵は仕入れた少女をどうするつもりなんだろう・・・。
どちらにしろ、この子に待っている運命は・・・もう、まともなものじゃない・・・。
本当に・・・本当にこのままでいいのだろうか。
彼女を商品として片付けてしまって・・・。
心の中で、はち切れそうなほど膨れ上がった例の想い。
そしてこの時、僕は『ある決意』を固め始めていた。
「兄貴、ちょっと折り入ってお願いがあるんだ。」
日頃、僕は兄貴に頼み事をすることはないのだけど・・・今日は違った。
ある事を実行するために・・・。
「いつもは僕が馬車を運転して、兄貴が商品を見張ってるけど、今日だけは変わってもらえないかな？・・・運転と見張り。」
「あぁ？・・・なぜなんだい？」
「実はさ・・・、ちょっとその子に興味があるんだ。」
この言葉に、兄貴の顔色が変わる。
「それって・・・お前・・・。
お前なぁ・・・せっかく仕入れた商品だぞ・・・。
その商品に手をつけてどうする・・・！？」
・・・やばい、兄貴の機嫌を損ねたか。
「・・・と言いたいところだが・・・今までのお前の働きっぷりには感謝しているしな・・・。
まあ・・・それに免じて、今日だけは特別に変わってやる・・・。
ただ、やり過ぎるなよ・・・こいつは売り物だからな・・・。」
おや？・・・どうやら兄貴を丸め込めることができたようだ。
はっきりいって全く自信はなかったけどね・・・。
「しかし・・・お前がこんな感じの娘が好みだったとはな・・・ふっ、まあゆっくりと楽しみな・・・。」
兄貴は意味深な笑いを浮かべながら、そのまま荷台の外へと出て行った。
余計なお世話だよ、兄貴・・・。
ジャラ・・・ジャララッ！
「うっ・・・うううっ・・・・」
急に静寂となった荷台の中・・・聞こえてくるのは鎖の音と、彼女の小さな呻き声のみ。
そして、唯一の出口である荷台の扉は、さっき兄貴が外から鍵を掛けていた。
そう・・・誰にも邪魔をされることは、もうないんだ・・・。
荷台の奥ですくんでいる彼女を見下ろすように立つと、彼女は上目遣いで僕を見上げていた。
その身体はガタガタと震え、眼鏡を外した彼女の綺麗な瞳からは涙が止めどなく流れている。
『助けて、助けて、助けてっ・・・！！』
言葉を奪われた彼女は、その涙で懸命に助けを訴えかけていた。
彼女はもう・・・抵抗することも・・・逃げることも・・・そして助けを呼ぶこともできない・・・。
僕にどんなことをされても、もうどうすることも出来ないのだ。
そう、どんなことでも・・・。